気がつけば、一人だった。
 見知らぬ天井を見上げ覚醒を迎えた。
目が覚めたのは、あれは多分病院だったと思う。
あの時の消毒液の匂いが未だにありありと思い出せる。
ただ、なんせ俺がまだ三つにもならない年のことだ。記憶が正しいか定かではない。
 あの頃俺はいつも母の腕の中にいた。
仰ぐようにしていつも空ばかり見つめ続けていた。
その青く広がる視界の中で、何度も俺を覗き込んで見つめる父の顔。
それだけは今でも微かに覚えている。
その母の腕が、その父の顔が。
突然消えてしまった。何の前触れもなく。
幼いながらそれを感じ取ったのか、それとも混乱していたのか何も考えられなくなって俺は泣き叫んだ。
支えてくれるものが無くなった事を知って、どうしようもなくてとりあえず泣いていた。

 数日後、叔父が俺を引き取りに来た。
あからさまに引き取り手がいなかったんで渋々って感じ見え見えな態度で。
俺がわからないとでも思ったんだろうか。
よく言うだろう。子供は空気で察知する。
「お前なんかいらない。お前なんか必要とされてないんだ」って。
痛いくらい、叔父の目がそう物語っていた。
年を重ねていくうちに、その扱いはますます酷くなっていった。

『泣き止めっ!』
俺の体はいとも簡単に壁に叩き付けられた。
子供の体は脆く、ミシッと聴きなれない音が体内で響いた。
息をすると…胸部が痛んだ。
『クソガキが…ギャーギャー喚くんじゃねーよ!』
ドフッ!
 視界が白んだ。
腹部に鈍痛が走る。
その後、ようやく蹴られたのだという事に気がついた。
痛みと共に襲う恐怖心が思考を麻痺させる。
こみ上げてくる液体の錆び臭さに、気を失った。
 目が覚めると、また白い見知らぬ天井だった。
いや、一度は見ているんだが。
消毒薬の臭いがまた俺の周りを取り巻いた。
またあの頃に戻ったのかと思った。
父と母を亡くしたあの日に。
そして、今でも忘れない。叔父の言葉。
『死んどきゃよかったものを・・・』
憎々しげに、舌打ちも加えて。



 和馬が絶望に落とされるには、あまりにも早いもので。
そんな過去を思い出す度に彼は胃を痛ませては蹲る。
決別できない自分にか、不遇の過去にか、いつまでも己の中に渦巻くどす黒いナニカに苛まれる。
 眉間に皺を寄せ小さく唸り、己の世界からゆっくりと彼は現実世界へと戻ってくる。
深く潜った海から、水圧の変化を身体で感じながら浮かんで酸素を欲するかのように。
彼は現実へ逃げてくる。
そこからは酸化の世界が広がるというのに。


                            to be continued...
「何も描かれていない未完成な絵。それがキャンパスだ。」と誰かが言っていた。
それだけで絵である、というわけだ。
しかし完成しているわけではなく、それから多くの人間が手を加えてゆき完成へと作り上げてゆく。
そういえば俺は今まで絵を完成させた事がない。
だって果てがないんだから。
それに絵の具なんかじゃあの澄んだ空は描けない。
『絵の具』って色が決められてるから。
どんなに色を混ぜたって、あの色はだせない。
俺の描きたい、俺の求める色は違うんだ。
だから、俺の絵は空であって空でない。
偽物の空なんだ。
俺の今の家族のような偽物の、空なんだ。

ギイッ――――
錆びたドアの蝶番が痛々しげに悲鳴をあげた。
「ただいま・・・・・・」
ようやく一日の学校の課程を終えた和馬が帰宅した。
 学校から和馬の家までそう遠くはない。
自転車で通っているのだがそれでも30分とかからない距離だろう。
 和馬の家はどこにでもあるような一戸建てで、少々年期の入ったといってもいいほどだがこざっぱりとした家だ。
外見の割には内装は綺麗になっていて温かさを感じさせる黄色を主体とした塗装を施している。
そんな家だが今は影を落としたようにひっそりとした灰色に包まれている。
家の中に人の気配はあるものの返事一つ返ってはこない。
そんな様子に動じることもなく、汚れた運動靴をいい加減に脱ぎ捨てると和馬は自室へと向かった。
 疲れきった体を重そうに引きずり階段を上ってゆくと正面に見える引き戸に手をかけた。
さして広くもない部屋に、ぽつんと点在している勉強机とベッド。
無造作に机に黒のデイバッグを放り投げるとそのままベッドへと身を投げ出した。
 彼の重さにベッドのスプリングがギィと小さく鳴いた。
唯一、彼の安らげる場所。
なにものにも縛られない自分だけの空間。


・・・・・・いつからだろう、ここがこんなに居心地がよくなったのは。
小さいころはあんなに一人になることを嫌がったのにな。
あぁ、そうか。みんながよそよそしくなった時だ。俺に対して。
それから、ここが唯一の安らぎになったんだ。



                            to be continued...
どうして、自分の欲しがるものは全て消えてしまうのだろうか。


―――「なぁ美弥子、青の絵の具持ってない?」
 唐突なその言葉に美弥子は眼を丸くした。
 油臭い匂いが充満する美術室に彼は幼馴染の美弥子と一緒にいた。
綺麗に晴れた七月の空の青さが目に痛い。どこか懐かしい、乾いた夏の匂いがする。

『光ってどう描くっけ・・・ややこしぃな・・・』
空っぽになり小さく縮こまった銀のチューブをゴミ箱へ投げると、美弥子を見た。
「もう無くなったの?一体何本使う気よ。」
 前の席でテキパキとイーゼルを組み立てる美弥子が呆れた様に肩を竦ませて言う。
「決まって青ばっかり無くなるよね。何描いてんのよ和馬は。」
組み立てたイーゼルに真っ白なキャンパスを乗せると彼女は自分の画材を鞄から取り出した。
視線はもちろん彼・・・和馬に向けられることはない。
「あれ、お前知らないの?俺が今まで何描いてたか。」
汚れたアイボリーのエプロンで青い絵の具のついた手を拭うと、念の為シャツが汚れないように袖を肘までまくって腕を組んだ。
「いくら腐れ縁っていってもね、そんなことまで知ってるわけないでしょ。」
「空、だよ。」
美弥子は一瞬動きを止めた。
「・・・空?」
今までいい加減な対応をしていた美弥子だがようやく彼を見た。
「そう、空。」
窓の外・・・遠くに広がる明るい景色を和馬はいとおしげに見つめた。
「なんで空かなぁ・・・?他にもっと色々あるでしょーに。いい被写体は・・・」
その言葉を聞いて視線を彼女に向けると、フッと微笑んだ。
「俺にとって特別だから。だから俺は空しか描かない。」
そういうと、『だから青、貸してちょーだい』とでも言うように右手を差し出した。
「・・・コレ、一つ貸しね。」
 一つ溜息をつくと自分の絵の具箱から青のラベルの貼られた銀のチューブを取り出すと仕方なく手渡した。
「さんきゅ。今度奢るから。」
「で、なんで特別なのよ。それくらい教えてよね。」
膨れっ面をつくる彼女に言われ、少し驚いたように眉を持ち上げると、
「・・・父親と母親だからね。」とだけ静かに呟いた。



                            to be continued...
 己の震え笑う様子に覚醒を見たのか、足元から人の声がした。
察するにここの住人であろう男・・・凄く、声がいい。
低いバリトン。先刻喩えた硬いベッドスプリングさながらの。
その声の良さにまた身が震えた。ゾクゾクと背筋を駆け上る感覚に産毛までもが総毛立つ。
「・・・ァ・・・ 」
 声が変に掠れる。雨に打たれすぎたか、喉に力を込める度に痛みがはしるが上手く言葉にならない。
うつ伏せてシーツを引っ掻く。身体を起こそうとするが両手足にダンベルでも付けられているかのように動かず、引力の存在をまざまざと見せ付けられた。
「生きてはいるようだな。しばらくじっとしとけ。」
 威圧的だが、どこかあやすように聞こえる言葉についに起き上がる事を断念した。
それよりも、これからどうしようか。
助けてくれたのは有難いが、これ以上何処の誰だかわからない人間に厄介になるのも悪い。
身体が回復次第出て行くしかない。金も当てもないが、3日は死にはしないだろう。
溜息を苦く重く吐き出した。ふと記憶の端に引っ掛かったあの真っ青な空に想いを寄せながら。



                            to be continued...
 「…知らない天井だ。」
徐々に開ける視界が薄灰の天井をとらえる。
腕を伸ばし空を掴むと、未だ明らかに覚醒しないままその見知らぬ無機質な空を眺めつづけていた。
ぼやけた視界に眼の渇きをおぼえると、腕を下ろしゆっくりと瞼を伏せた。
視覚が消えるとやけに他器官が無意識にも環境を拾う。
それに気付いてしまうとどうしても今度は意識してそれらを追ってしまう。
規則正しく刻む自分の鼓動と何処かで鳴るアナログ時計の秒針のリズムが少しずつずれていく。
血液の循環までこの身は感じ取れはしないが、打ち鳴らし続けるこの音が自分がまだ死んでいないことを告げる。
肌に触れる布の感触。動けば先ほどのリズムに衣擦れのソプラノパートが加えられる。
 何処かのベッドに寝かされている事はなんとなくわかった。衣擦れのソプラノが響く一瞬にスプリングの軋む鈍いバリトンまでもが歌ったからだ。
きめの細かなシーツはざらりとした感触を指に与え、それに少し落ちついた。
今度目が覚めたら堅いコンクリート打ち捨てられ雨ざらしになってるかと思っていたからだ。
自力でどこか身の休まる場所へ足を運んだ記憶はない。むしろ行くあてや気力すらなかったという方が正しいかもしれない。
 シーツの端を引っ張って体に巻き込み寝返りを打つ。肌の晒される首や腕にまでざらざらとした感触が伝わった。
纏わる白布に顔を埋めて肺に空気を満たした。少しの煙草臭さが同時に肺へと染み渡る。
このベッドの持ち主は愛煙家らしい。それも相当辛めのがお好みのようだ。
中学時代の結構人気のあった先生が同じ匂いを身に纏わせていた・・・そう、確かマルボロの赤箱だったと思う。
妙な親近感に身を震わせ軽く微笑んだ。
「眼、覚めたのか。」

                            to be continued...
星々は謳う。『汝の身を許すまじ』と。
風は鳴る。『汝の傷を癒すまじ』と。
海は囁く。『汝の悪事は洗うまじ』と。
神々は泣く。『汝の所業を許すまじ』と。



雨が―――降っていたような気がする。
自分の存在を責めるかのように、咎めの滝はこの身に打ちつけていた。
俯く瞳の端からは何もかもが灰色にしか映らなかった。通り過ぎる人間たちも中身の無い街の装飾も。
ただ確かに覚えているのは、纏った服が水を吸い次第に重くなっていったことだけ。
まるで戒めの鎖に絡め取られた罪人が如く、そのまま意識まで奪われていった。
視覚が最後に捕らえた映像は、一体なんだっただろうか…






いくつか書いている小説の冒頭部。
しばらくここに掲載して続けていこうかと。

お暇な方はお付き合い下さいませ。
終わりのない問いを続ける少女は答えを求めて彷徨う。
いつまでも果てのない迷宮を幾度となく進み続けて、光を求めた。
その中で少女は漠然とした壁にぶち当たる。
それはまだ見ぬ彼岸の世界のことであったり、わが身に降掛かる恋という名の病であったり。
少女のその小さな肩にはまだ大きすぎる問題で。
それでも彼女はそれらに頭を悩ませる。

空虚な石は彼女にこう囁いた。
『呼吸せよ。君はまだ生きている。』
そう、今答えを出さずともそれは時が解決するものなのだ。
ゆっくり大きくなりなさい。
そして、ゆっくり自分を見つめて生きなさい。
いつも後悔のないように。
そして

                共鳴しなさい。

柚の花咲く夜を纏いし少女へ。
これはあなたへ宛てた手紙です。
迷い悩むことはとても大切だと思います。
だからこそ、あたしは貴女へ。
彼女の歌声を選らんだ。
空虚な石は貴女に答えを導いてくれるはず。
貴女に白いエーテルを。

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